インタビュー3に引き続き、ガーディナーがアーティストとして今のスタイルをどうやって確立したのか、特に日本の存在などについて聞いてみました。
すみえ: ガーディナーのアーティストとしてのスタイルはどの様に培われたのですが?
制作過程で日本を意識し始めたのはいつ頃か覚えていますか?スタイルやモチーフはどの様に変化してきていますか?
ガーディナー: 造形のスタイルや興味は常に変わり進化しているけれど、私の美的アプローチの中にははっきりとした特徴も幾つかあります。例えば、余白部分(作品の背景にあたる部分)を強調したり、人に考えさせるようなイメージや技法を用いたり。
明白で細部まで作り込まれたスタイルや、オリジナルなスタイルが出来上がっているアーティストを見ると、どうやってそこへたどり着いたのかとても知りたくなる。アーティストを本業として来る日も来る日もスタジオに入り浸っていたら、もしかして私も…。そんな幻想を抱いてみたこともあるけれど、多分そんなことはないと思う。今の私には、同時進行で色んな事に興味を持ち、ある時は絵を描いたり、ある時はキルトをして、そして写真、コラージュ、コラボレーション、そういうアプローチがあっているかな。とにかく常に行ったり来たりするのが私で、多すぎるアイデアと少なすぎる時間。贅沢な問題ではあると思うけれどね。時間はあるけどアイデアが全くないなんて事を想像してみてよ。
もし私のスタイルが進化しているなら(そう確信しているけれど)、焦点がだんだんと定まりつつあるといいな。
多分振り返ってみてやっと全容が見えてくるのかなと思う。キュレーターの手も借りつつ。
日本という影響が私の意識にどの様に取り込まれてきたかは私にとっては根元的な問いです。様々な角度からこの問いに向き合ったら、どの回答にもメリットはあると思う。父が不在だった幼少期、父から受け継いだ日本という伝統や文化と繋がることを母は薦めてくれた。アーティストとしての私の中に、いつの頃から日本という立場(これは社会政治的かつ文化的な位置付け)を意識的に使う様になったのか、作品の中でどの様に表現されるべきなのか、いまいち良くわかりません。
でも、それに因んだ話や左右されただろう過去の出来事ならあります。
小さい頃の思い出の中で一番強く残っているのは、オンタリオアートギャラリーが主催したアートキャンプでのこと。
その時に参加した版画のクラスで私はてっぺんが平たい三角形の山とその横に丸い形をした太陽を作りました。とてもシンプルなデザインなんだけれど、インクを着けて刷って出てきた版画を見て先生が大きな声で言ったの “富士山!富士山知ってる?日本の山よ!”って。心の中でね、“そっか、確かにその通りだなぁ”って思った。
オースティンに住んでいた時代(1998年~2003年)に日本語のクラスを取り、言語を美的要素として意識し始めたのもその頃。
アートインスティチュート大学(シカゴ、イリノイ州)時代に、マシュー ゴーリッシュ教授のクラスを受講した時に先生が私に課した本が大江健三郎の “A Personal Matter”でした。同じ時期に父が谷崎潤一郎の本 “The Makioka Sisters”をくれたんだけれど、
どちらの本の内容も身近に感じたの。詳しい理由はここでは説明しきれないけれど…。
それは血の繋がりのある家族の一員のことをより深く知る過程に似た感覚かな。
もう一つ、私にとっては日本という存在が責任であり財産であるという事に小さい頃から気がついていた。父が、アーティストになりたいなら日本の名前を使った方が良いって言ってくれた事があったんだけれど。その理由は、その方が“白人にとって受けがいい”って。当時はそんな事を包み隠さず話す父に衝撃を受けたけれど、でも父にとってはそれが現実だったということにも気がついた。父がどんなに日本の存在をぬぐい去ろうとしても、結局は日本という貼られたラベルに恩恵も受けてきたという事。
おそらく知らないと思うけれど、アメリカのアート市場ではアジアンアートの存在は薄いんです。つい最近、Jiab Prachakulというアジア人の肖像画を中心に作品作りをしているアーティストに関する記事を読みました。こんな視点の作品はこれまでになかった!って感じで注目を集めている作家です。確かにそうかもね…。
https://www.nytimes.com/2021/02/03/t-magazine/jiab-prachakul-art.html
(記事に興味のある人はご参考までに)