インタビュー1 

私たちのメールの中によく出てくるアイデンティティーという概念。
ガーディナーの作品のテーマになる事も多く、彼女が普段から良く考えていること。
ガーディナーにとって日本はどんな存在だったのか?ガーディナーが自身の中に見いだすアイデンティティーは常に変化しているのか?そして、これまでの道のりはどんなだったか?などなど、サンノゼのジャパンタウンでの写真を元にガーディナーにインタビューしてみました。

ガーディナー:(サンノゼでの)イメージは過ぎ去った日々への恋しさや憧れを私の中に思い起こさせます。もし日系アメリカ人が大戦時の強制収容でバラバラにならなかったらコミュニティは今どんな風になっていたのかなどと想いを巡らせます。

すみえ:過去への恋しさとは、ガーディナーが実際に経験した出来事に対してですか?それとも過去へ対する憧れの様なものですか?

ガーディナー:ここでいう過去とは、ロマンティックで神話的な私の想像の中の過去です。Japanese Americaを探し求め、そこに私自身を見つけようとしているのだと思います。
”もしこうだったら…”という仮説を頭の中で描いて想像しているんです。
”もしジャパンタウンがここまで廃れなかったら”
”もし日系アメリカ人の強制収容が行われず日系コミュニティがここまでアメリカに同化しなかったら?”
”もし私の家族が日本語を失わなかったら?”
”もし私が日本の名前を授かっていたら?”なんて事まで想像します。
サンノゼで撮ったシャッターの降りた店の写真は、中が見えない、仲間の集う活気に溢れた場所に立ち入れないという私の気持ちを象徴しているのかもしれません。想像のみが私に唯一残された手段、まるで自身自分の歴史から閉ざされている感覚…。

すみえ:ガーディナーの幼少時代の日系コミュニティーはどんなだったか教えてください。

ガーディナー:私の幼少時代は日系アメリカ人や日系カナダ人のコミュニティーと交流があったことを記憶していません。私が住んでいたトロント(カナダ)にはジャパンタウンの様な場所はありませんでした。周りに日系の人達もいませんでした。私の両親は離婚していて、私は白人の母の元ヨーロッパ系カナダ人が住んでいるコミュニティで育ちました。当時移民といったら香港やパキスタンやカリブ海から来ている人達ばかりでした。
父や弟と会う機会もほとんどありませんでした。高校時代に一人だけ私みたいに片親が日系の子がいましたが、顔見知り程度の付き合いでした。20代の時に義母(父が日系の女性と再婚)との交流が始まるんですが、それまでは他の日系の人たちへ親近感を感じることはありませんでした。
私を日系の一員として受け入れ日本のアイデンティティーを使うことを”許容”してくれた最初の存在はその義母でした。
私がJapanese Americaを神話的な存在として扱う理由は、私の中に日系コミュニティーの存在が欠如していたからだと思います。
20代で始めた太鼓や日本語のクラスを通して、そしてアートという創作活動を通して日本との繋がりを積極的に作って来ましたが、日本の存在が小さい頃から身近にあった訳でもなく、いつもどこかで今さら遅すぎるのではとか部外者という気持ちを拭えません。
そして日系アメリカ人が共有するアイデンティティーと私の中に存在する日本というアイデンティティーは違うということを受け入れてきました。
私の場合は、私一人で作り上げる、あるいは組み立てないといけない。無論私のアイデンティティーに正当性が欠けているとか偽物だとは思っていません。ある特殊な状況下でディアスポラとしてのアイデンティティーが形成される、私もその一例だと思います。

すみえ:幼少期から20代くらいまでガーディナーにとって日本の存在が薄かったという印象ですが、どうですか?

ガーディナー:日本の存在が私の中で薄かったというのとは違いますが、私の中に存在していた日本はとても漠然としていて白人が持つ日本のイメージの影響が大きかったと思います。”エキゾチック”とか”異質”とか”別の何か”と周りから見られ表現される事が多かったです。私の人種的立ち位置は不明瞭と受け取られていました。周囲の人たちは日本人に対するそれぞれのイメージで私を見ようとし、私はそれらのイメージを自分の中にひたすら取り込んでいきました。私の自身に抱いている民族性は私の生の体験から培われたというよりも、旅行パンフレットなどに載っている作られた異国のイメージという感じでした。
小学生の時にバケーションでハワイを訪れた際、Japanese Americaを束の間味わう事が出来ました。旅の終わりにトロントに帰りたくないなぁと思ったのを覚えています。ハワイでの経験は私がトロントに対して感じていた違和感をもっと鮮明にさせる出来事でした。
そして、1987年にサンフランシスコに移り住み、そこで目の当たりにする数々の日本食屋さんや日本町、太鼓道場など、私の中で目覚め始める何かを確実に感じました。

地元の小学校での写真。ガーディナーがどれだか分かりますか??

2回目のインタビューでは、20歳以降のガーディナー、特に継母から受けた影響やそれに伴い日本との距離感がどの様に変わってきたかなどを聞いてみたいと思います。

to be continued…

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